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「知性の総量不変の法則」を信じると、希望があるんだよね。

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今日のダーリン
・例えばどこかの地方の老人が、昔からある民謡を聞いて「ああ、いいなぁ。この歌手はうまいなぁ」としみじみ言えるのは、そのよさを感じ取っているからだ。その老人は、音楽について勉強をしたわけでもないし、いろんな音楽を聴いて耳を肥やしたというわけでもない。民謡に親しんで聞いているうちに、「いいなぁ」と思うことが少しずつ見えてきたのだろう。民謡の「いいなぁ」の部分について、だれもが理解できたり感じられたりはできないわけで。わからない人にとっては、おそらくとても高度なことなのだ。
ただの相撲ファンとして、ずっと相撲を見てきている人は、ぼくらがテレビでぼんやり見ている取り組みの、ある瞬間を「おっ、すごいな」と思っていたりする。「どこをどうして、どうなるはずだったのを、どこそこをどうにかして、こうしたんだ」というようなこと感心していたりする。これも、だれもが理解したり感じたりはできないもので、特別に学習したからわかるということでもない。
ダンスの競技大会みたいなものが増えてきた。踊りと歌を組み合わせたアイドルたちも、たくさんデビューして、その魅力をファンたちが語りあう。ぼくなんかはなんだかとにかくかっこいいなと思うが、どっちのだれがどれくらいすごいか、言えるもんじゃない。しかし、踊っている仲間どうしの内では、「あいつの、あそこらへんはまねできない」とかね。感じて理解してくやしがってたりするわけだ。
ある領域を好きで、それとちゃんとつきあってる人たちが、いいもの、そうでもないもの、可能性のあるもの、などを、しっかりと感じ取って理解しているというのは、すべて「知性」だと言えると思うのだ。明治の知識人たちのような、漢籍の素養があり、外国語ができて、専門の知識も持っているという「知性」、戦後の思想家や文学者たちのような教養と「知性」、そういう「知性」は、たしかに減衰していると思うのだが、近年になって著しく発達したデジタルの教養を含めて、人間界全体の「知性の総量」というのは、実はずっと変わらずに、一定なのではないだろうか。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。「知性の総量不変の法則」を信じると、希望があるんだよね。
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ぼくのタワゴト
人には人の領域があって、全て網羅することなんて身体が何個あってもできないし、だからこそ突き詰めること・やりぬくこと・こだわることって素晴らしいんだな。でもそのリソースをどこに注ぎ込むのかってのはめぐり合わせだなとは思う。大学の4年間パーカスを必死に練習して、今何かの役に立っているかと言われると顔がグニャッとなる。お金を生み出すスキルにも”モテる”特技にもなっていない。インターンに勤しんだりビジネスにチャレンジしてみたりやっておけばよかったのかな〜とも思う。でも、ある程度は音楽に精通できたからこそ、音楽を感じ取って「イイ…」と思える、理解する「知性」を持てているのかな。だってさ、音楽って人類の豊かさにとって大きい領域じゃん。胸を張って良いよね。
明治の知識人たちのような、漢籍の素養があり、外国語ができて、専門の知識も持っているという「知性」、戦後の思想家や文学者たちのような教養と「知性」、そういう「知性」は、たしかに減衰していると思うのだが、近年になって著しく発達したデジタルの教養を含めて、人間界全体の「知性の総量」というのは、実はずっと変わらずに、一定なのではないだろうか。
「知性の総量不変の法則」は言い得て妙だな。世代には世代の知性があって、それはトレードオフなものである。「明治の文学人でありながら、現代のなんちゃってITコンサルタントしてます。」なんてのは変。世代には世代の知性があって、人には人の知性がある。だから今やるべきことに素直になるべきだし、これまでやってきたことを肯定してあげることが、糸井重里が言う「希望」なんだろうな。