⚰️

そうだね。いつか死んだりもするけれど、私はげんきです。

💭
今日のダーリン
・「人が死ぬ」、と率直に文字にすると なんだかずいぶん冷たい言い方に見える。 死ぬということについて、人はとても敏感になる。 死ぬということについて、自然に話すこともあまりない。 話のテーマに選ぶだけでも、ちょっと身を硬くしがちだ。 ぼくのなかにもそういう、死についての特別な気持ちが たぶんあると思うので、ときどきわざと、 もっと慣れておかなきゃというような意図で、 死について書いたり話したりしている。 だいたい、これを読んでいるほとんどの人たちよりも、 ぼくは「死ぬ」ことに近いところにいる。 これは、なんのことはない、平均的な寿命から考えて、 残りがあんまり多くはないよ、という意味だ。 人生100年時代とか、大きく見積もったとしても、 ぼくが生きられるのはあと25年ということになる。 生まれたばかりの子どもだったら、同じ25年生きても、 まだまだずいぶん先の時間があるわけで、 このちがいはけっこう大きい。 そういうことを書くのにも、ちょっとだけ気をつかう。 「そんなさみしいこと言わないでくださいよ」と、 言わせてしまうのもよくないなぁと思うからだ。 人はみんな必ず死ぬのだけれど、 そしておおよそは80歳台くらいで死ぬのだけれど、 「あなたはまだまだ死なない」と言い合うものらしいのだ。 そこらへんの表現はマナーというようなものなのだろう。 でもね、ぼくはマナーを無視したいのじゃなくて、 ときどき「ふつうの動詞」として死ぬことを語りたい。 ぼくの知っている人たちも、もう何人も死んだ。 年上の人もたくさんいたし、年下の人も死んだ。 ほんとの気持ちとしては、とてもさみしいものだ。 ただ、それはこの世ばかりに重きを置き過ぎなのかもね。 いつかは死んじゃう人たちが生きているのが この世なのだと思うと、それはあの世の手前だとも言える。 さみしがるのはいいけれど、かわいそうがるのは、 死んだ人にわるいような気がしてならない。 なんでもかんでも考え途中で、やりかけのままで、 たぶん、ぼくも死んでいくことになるのだが、 いまはこの世の側にいる人間として、墓参りなんかしてね、 ちょっとさみしい気持ちになってる。 今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。 そうだね。いつか死んだりもするけれど、私はげんきです。
💭
僕のタワゴト
「死」は急に訪れる。身内でも知り合いでも有名人でも「亡くなったらしいよ…」と聞くだけで胸が握りつぶされる。
大学1年時にとある部活でお世話になった女性の先輩が昨年亡くなった。その部活は1年の終わりで辞めてしまったのでかれこれ5年ほど関わりがないが、彼女のブログが大好きだった。大学院では反出生主義・死亡促進主義など、存在に起因する苦しみについて研究されていたようで、パブリックな論文や発表資料も自分が考えようともしなかった分野ということもあり興味深く読んでいた。だからこそ苦しくなった。
話がそれた。
日常生活で自分や他人が「死」を避けている理由を考えてみると、自分の理解を超越しているからなのかなとも思う。天国だの地獄だの言われているが、結局のところ死後の世界は誰も知らない
でも知りたいとも思わない。その理由は「星新一」の「処刑」と「殉職」を読んでもらえれば共感してくれると思う。僕のバイブル。
この世ばかりに重きを置き過ぎなのかもね。 いつかは死んじゃう人たちが生きているのが この世なのだと思うと、それはあの世の手前だとも言える。 さみしがるのはいいけれど、かわいそうがるのは、 死んだ人にわるいような気がしてならない。
巧妙に創られているこの人生を豊かなものにするためには、この考え方がベストエフォートなのかなと思うが、できるだけ誰も苦しまずに死なないで欲しいというワガママも許して欲しいな。