💭

有徳さについて

僕は有徳な人間が好きだ。 そして、僕自身も有徳な人間でありたいと願っている。
 

 
僕が誰かを有徳な人間であり、好ましいと感じるには2つの条件がある。1つ目に実現すべき価値への感覚、いわゆる価値観が有徳さを感じる僕と一致していること。2つ目に僕の前でその価値観に従った価値を実現する行動をとる、あるいはそのような行動を僕に知らせること。
 
僕が僕にとって有徳であることは比較的容易である。1つ目の条件は常に満たしているのだから、2つ目の条件として自分がよいと思う行動を実現すればよいだけだからだ。また、僕の行動は常に僕によって知らされている。
 
他者が僕にとって有徳であることは、短絡的にはそれほど難しいことではない。社会常識と一致した倫理観に従った大抵の行動は、僕の価値観に従った価値を実現しているように見えるからだ。
 
他者が僕にとって有徳であることは、長期的には難しい。社会常識と一致した倫理観に従っているだけでは、大抵の行動がよく見えても、いつかは大きな失望を感じることがある。その失望が生じるのは衣食住についてかもしれないし、生や死についてかもしれない。
 
短絡的には1つ目の価値観の一致といった条件を満たしているかどうかは分かりづらく、2つ目の条件さえ満たしていればいい。しかし長期的には、価値観の一致がとても重要になる。
 
友人や恋人(以降:キミ)という存在を考える上で、価値観の一致を重要視する所以はここにある。
 
僕が心の底から「有徳さが好き」であるとキミに伝えたとき、なにか客観的な尺度で、例えば「模範的な人間だから好きだ」と言われることに近いように感じる場合もあるかもしれない。
 
しかしこれは見当違いで、僕が好ましさを感じている有徳さは、価値を感じるものが僕と一致していた上で、キミがその価値を当たり前のように実現していくその有徳さを、僕が隣で感じとれることにある。
 
つまり、僕が僕にとって有徳であることと同じ簡単さで、キミは僕にとって有徳でいてくれるのだ。
 
このことは奇跡であり、この奇跡を喜び合えることに、僕はとてつもない幸福を感じる。
 

 
有徳なキミに捧ぐ、僕はあなたの有徳さを愛する。